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関東大震災と後藤新平 東京復興 構想力に覇気 青山佾...

■題 名 関東大震災と後藤新平 東京復興 構想力に覇気 青山佾
■日 付 1899年12月31日 ■大分類 新聞等(読売)
■概要 . 関東大震災の復興で結果として残ったのはまず第一に、焼失面積(約3450ヘクタール)を上回る3600ヘクタールの区画整理を実施したことである。昭和通り、靖国通り、晴海通りなど幹線道路がこのときできた。後藤新平は「自動車時代が到来する」と予言していた。合わせて隅田公園、浜町公園、錦糸公園そして小学校併設防災公園などたくさんの公園をつくった。
 第二に、「隅田川を橋の博物館にしよう」と言って吾妻橋、駒形橋、厩橋など鉄製の名橋を架けた。「市民が政治の議論をする場が必要だ」と言って日比谷公会堂をつくった。
 第三に都市に居住する中堅所得層向けに中層鉄筋不燃建築のマンションという新しい生活様式を始めた。同潤会アパートもその一つである。
 結果として関東大震災の震災復興は、都市の機能更新をもたらし市民に新しい生活様式を導入した。もちろんこれら業績のすべてを後藤がこと細かに差配したわけではない。後藤の構想のかなりの部分が縮小されたのも事実である。しかし、9月1日発災、2日組閣、その晩に後藤は自宅で「遷都はしない。欧米に負けない近代都市をつくる」というメモを書き、スピード感をもって実行した。それができたのは、後藤は東京市長時代、自治体の長として「自治はよそにはない。市民のなかにある」と説いて東京を改造するプランをつくっていたからである。
 最初に大風呂敷を広げ、その後計画は縮小されても一定の結果は残る、という手法は、後藤は台湾民政長官としても、初代満鉄総裁としても採用したやり方であって、私たちは雄大な構想に伸び盛り日本の覇気を見ることができる。
 当時も国の内外から多額の義捐金が寄せられた。その配分について、全額を当面のために配分するのではなく将来のためにも使うべきだという意見が閣議で出て、義損金の一部が同潤会アパートの建設資金に使われた。今の日本は成熟社会だが、だからこそ前向きの将来世代のための議論が望まれる。            ゛
■タグ 読売 コラム 青山佾 関東大震災 後藤新平
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